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「この世界の片隅に」を観た(生活をする、というむごくてつよいこと)

この世界の片隅に」を観た。

 

丸の内トーエー、今日最後の夜の回。時代の入った劇場だ。入り口で受付のお姉さんから券を買い、地下に降りる。
まさしく「ホール」という感じで、ちんまりしたロビーに比べシアターホールがとにかくでかい。
ふかふかだが色あせたじゅうたんが一面に敷かれ、天井はびっくりするくらい高く、見渡す限り座席の野原、広々としている。
ベルベットを基調にしたシックな内装がいい感じ。
とにかく広いホール内は光源が足りず、そこここの隅が薄暗いのもいい。
近くを通る地下鉄銀座線なのか、ごおおおお……と地鳴りのような重低音が時折する。

 

最近の劇場は急な斜面に順序良く座席を配列した、奥行きが浅くて高さのあることが多いが、ここの高い高い天井はほんとにただただ高いだけで、頭上の空間はぽかんと有り余っている。

平面にならんだ座席から皆で遠くのスクリーンを見上げる感じだ。
でっかいスクリーンを目の高さにして観るシネマコンプレックスに慣れ切った身には新鮮だった。
そういや今は廃業してしまった地元の劇場もこんなんだったな。
ちっちゃいがここもホールになっていて、ちんまりした二階席なんてあってさ、2階は300円引きなの。

 

お客さんは意外にいたが、なにぶん劇場がめちゃんこ広いので目立たなかった。
ただ、みんな考えることが同じで真ん中らへんに集まっていたので、ガランとしたホール内にきゅうきゅうと座る感じは、なんとなしに「居心地の悪さを共有した」居心地の良さがあった。親近感があってよかったな。
会社終わりの若いカップル、これからデートに行くのだろう落ち着いた30代くらいが多かった。
あと熟年層も目立った。座席でスポーツ新聞読んでるおじさん、PHP新書を読むおじさん、ご夫婦もいた。

あとね、ビール飲んでる人がいて、まじかよ!と思ったら売店で缶ビール売ってた!まじかよ!キリンビア―!!買って飲んだ。450円。

 

静かに予告編が始まり、唐突に本編が始まった。

 

シラサギ。

 

あからさまでないものがとっても上手だな、伝わるなぁと思っていた。
水原くん。「最近学校来てる?」「帰っても親父とおふくろが飲んだくれてるから」「海が嫌い」「兄」「あの日の前もこんなウサギの波」……
彼の家庭に何が起こったのか、明言される前でもきちんと伝わる。

 

義姉が帰ってきたときのすずさんの所在なさ。
てきぱき働く姉が、足の悪いお義母さんを台所から呼ぶ、仕方ないねぇといった風情で向かう義母、用件はただ「お味噌汁の具」……
分かりすぎてなんかもうつらいぜ!
そうなんだよね、嫁に来た自分には絶対呼べないよねー、めっちゃ気を遣っちゃうからね!
いやきっと自分が呼んだってお義母さんは来てくれるんだよ、足を引きずって来てくれるとは思うよ。でも呼べないよねー。
それを軽々と「当たり前に」やる、この「本来の」家族の感じ。
誰も悪くないのに自分がのけ者になっているような気のする、
自分がただただ居場所のない心地がするという……わかる……いやこのお義姉さんわざとやってるふしあるけど……

 

一転、里帰りした実家の茶の間でお昼寝するやつ!わかるー!
嫁ぎ先ではみんなの集う居間ではお昼寝できないよね……いや昼寝してもたぶん怒られないよ、嫌味を言われることもないよ、
でもできないよね。やっぱさ……気を遣うじゃない。居場所じゃないのよね。こんな嫁かとがっかりされたくないしね。
それをさ、堂々とみんなの前でお昼寝してさ、皆の声でふっと目を覚ましてさ、あぁここだったかと安心する感じさ……もう一回目を閉じる感じさ……
子どものころを思い出すよね。そりゃすずさんも「あああっちは夢だったか、わたしはまだ子どもだったか」みたいに思うよね。

 

戦争が激しくなってきて、着るものが変わるのがなるほどなぁと思った。
私だけかもしれないが、戦前と戦中のイメージがごっちゃになっていて、
戦前もめちゃめちゃ貧しくモダンでない、電化製品もないし都市も文化もない、江戸時代の地続き、
みんなモンペで芋食ってる、みたいな間違った認識を長いことしてたんだよね。
そうじゃなくて、モガ(モダンガール)もいて、電化製品もあって(作中ラジオも車も電車もありましたがな)、都市には映画やらなんやら娯楽が溢れてて、
オシャレしてたんだもんな。それがだんだん防空頭巾やらもんぺやら「私の知っている戦中」になっていくのがな……
後でも書くけど、そういう生活の細部にものすごい親近感を感じた。
この世界で生きている自分を見ていた。

 

この世界の片隅に

 

生きるということ。

 

なんていうんだろう……こういうお話ってさ、「とってもつらく悲しい状況でも、それでも『前を向いて生きていく』人間のすばらしさ」を謳うこと、あるじゃない。
「たくましく生きていく」
「ユーモアを忘れず明るく前向きに生きていく」
大事だと思うんだけど、なんか違う気がするんだよなぁ。

 

そんな、人間の「善なる面」を仰々しく切り取って、つまびらかに開陳して、無理くり押し付けなくてもいいんじゃないか。
そうやって強大な善なるものを喧伝しなくてもいいんじゃないか。
悲しいまま生活して笑ってもいいんじゃないか。
それは「前向き」だなんて無理に飾り立てなくてもいい、当たり前のことなんじゃないか。

生活を営むのが「前向きにたくましく」、そのなかでも冗談を言い合ってふふって笑っちゃうのが「ユーモアを忘れず明るく」、ってのは違くて、
人間はどんなに悲惨でかなしくてむごくても、生活しちゃうんだ。
生活するのが生きることだから。
水を汲んで、火を起こして、ご飯を作って、洗い物して洗濯して掃除して、服の手入れや家の修繕やご近所づきあいや畑仕事や……
どんな悲しい状況でも、生活はやってくる。

 

人間は生きるという一事のために、生活を営まざるをえないんだ、と思う。
生活をする、それはなんていうか、むごいくらい強い力なんだよなぁ。

 

悲しみを格好良く乗り越えて/蓋をして、生活をしてるんじゃない。
生活のなかに悲しみも喜びもごっちゃになっているんだ。
悲しいまま生活をして、そのなかに喜びもあって……
前向きだから生活をしてるわけじゃない。生活をしてるから前向きなわけじゃない。

 

娘を亡くしてもご飯の支度をするし、ぐちゃぼろのひとを息子と気づかずそのまま死なせてても食べ物をもらいに行くんだよ。
おもしろいことがあればふふって笑ってみんなに教えるし、
片手を失っても、絵がもう描けなくても、それでも家事をするんだ。

 

それは「前向き」で「ユーモアをわすれない」じゃなくて、生活をするうえで当たり前のことなんだと思う。
仰々しいお題目ではなくて、生活をせねばならぬ、という一大事が先に来てるだけなんじゃないか。

明るく・つよく・たくましくなくたって、前向きでなくたって、生活できるし、生活していい。

生きていい。

 

 

もちろん、悲しみがあるはずなのに悲しみだけを見ていられずに生活しちゃう、ってのはある意味むごいことで、

自分をごまかしもするし、言い訳のようにせめて良かった部分を探したりもするし、罪悪感だってわいてくるのは当然だ。
「せめてあなたが助かってよかった」とかさ、「兄ちゃんが死んじゃっていないから怒られないよ」とかさ、
すずさんが疑問に思ったように、歪んでいるんだと思う。
みんな悲しみから目をそらしたくて、自分が「生きている」ことや、悲しいはずなのに当たり前に「生活している」罪悪感をなんとか緩和しようとするんだ。

 

生活をするってのは強い事象だ。
彼岸や悲劇という「非日常」から、生きるという「こちらの岸辺」に否が応でも引き寄せてしまう。

広島から飛んできた障子の桟に、今はもう一枚も残っていない障子紙に広島の家族を垣間見て、ずっと木に引っ掛けたままにしていたすずさん。
最後、すずさんはその障子の桟をかまどのたき木にする。
そうだ、それでも生活は続く、ということなんじゃないかと思った。

何を失っても、思い出のなかだけにいられなくても、それでも生活は続く。

 

ラスト、広島から戦災孤児を引き取って帰る二人もそうだった。
ああ、この子を「生活」に引き戻したんだな、と思った。「生きる」というこちら側の岸辺に引き寄せた。


誰しもご飯を食べるし服を着るし、誰しも生活せねばならない、ということは、私たちは「生活をしている」という一点で共通している、ということでもある。
すずさんの暮らしを見ていて、なんか「戦争の中で生きていた人」というものが胸にすとんと来た。
何万人亡くなったとか何百棟焼けたとか、すぐ数字になってぼやけてしまうけど、一人一人に家族がいてさ、毎日ご飯食べてるんだよなぁ。
帰る家があってさ。
炊事洗濯をしててさ。
これまでだっていろんな戦争のお話観たり読んだりしてきたけど、生活の描き方の密度の濃さがこんなにわたしをひっかき回してるんじゃないか。
すずさんたちの暮らしを他人に思えなくなっちゃったんだよなぁ。
自分の生活とだぶらせて観ていた。

 


あとね、エンディングでお義姉さんがさ、モガのころの洋服を切っておちびちゃんとすずさんと3人で分けっこするじゃない。
あれもめちゃくちゃ泣いたよね。
モガで旦那さんと出会って都会でハイカラなお仕事してた頃がさ、たぶんお義姉さんとしては一番幸せな時代だったんだろうと思うの。
それを忘れられなくて今まで取ってあったんじゃないかって。
その服にハサミを入れてさ、3人で分けっこしてさ……すずさん、家族になったねえ。居場所ができたねえ。

お義父さんがエンジンの設計図を焼くのも泣いた。
それぞれの人生よなぁ。


内臓が揺さぶられるみたいにつらいシーンも悲しいシーンもいっぱいあるんだけど、
なぜか明日からの日々もしっかり「生活」しよう、
生きよう、とあたたかく思える、不思議な映画でした。