永井みみ著『ミシンと金魚』を読んだ(老いと後悔に向き合う/世界に再会するということ)

ここ2、3年ほど、小説を読めなくなっていた。 

子どもが産まれて育児に忙殺され、かつて好きなものや大事にしていたものをどんどん放り捨てていて、さらにコロナ禍で閉じこもっているうちに、自分がどんどん閉ざされていくのを感じていた。 

小説は、自分のこころの窓のようなもので、社会性に乏しい自分にとってはずっと、外界との接点だった。
自分と違うひと・状況・世界を考えるための、いわば他者へのかけ橋だった。 

だけれど、この数年というもの、 
わたしにはよるべがない、わたしは正体をなくしている、だから開くべき窓がない。もし橋を渡ってもここには理解できる他者がいない、理解したい他者がいない、 
というか他者と参照すべき自分を持たないので、いるはずの他者を認識できていないという感じ。 

外に向かって全く心が開いていかない。 
自分のなかを照らし合わせたくなかった。 
失ったおのれの中身をまじまじと見たくなかったのかもしれない。 

それが、この小説は読むことができた。

何気なく雑誌を手に取り、巻頭から目で追っていくうちに、嗚咽があふれて、マスクをびしょびしょにしたまま、歯を食いしばって読んでいた。 

 

■『ミシンと金魚』はこんなお話

 

第45回すばる文学賞発表。
受賞作/永井みみ「ミシンと金魚」。安田カケイは、訪問介護やデイ・サービスのケアを受け一人暮らしをしている。認知症の症状があり、近年の記憶が曖昧なカケイ。ある夜彼女は床に就き、ミシンを踏んで生計を立ててきた自らの過去に思いを馳せる。

https://www.bungei.shueisha.co.jp/news/subaru/

 

認知症の老女、という自分とはかけ離れた主人公だというのに、まっすぐ心に刺さった。これはわたしの物語だ、あるいはわたしのために語られた物語だ、と。 

たくさんの人にそう思わせるだけの、力がある小説だと思います。 
認知症や老いや介護に関心のあるひと、女性や弱者を取り巻く問題に関心のあるひと、育児中のひと、重たい後悔を抱えたひとに特におすすめします。 


■主人公の一人語りが凄まじい


開幕早々、とにかくデリカシーのない昭和アングラ下ネタがぶちかまされる。
そのあまりの滔々とした語り口に、頭のなかで考えてるだけかなぁと思いきや、あっこれ喋り続けてたん?!病院の待合室で?!と気づく瞬間の、ユーモラスかつぞっとするような仕掛けは、小説ならでは。

一方で、その節回しは落語や演劇のようで、読んでいて(内容はともかく)不快ではない。
怒涛の量、脈絡のないエピソードの連なり。
外界に対する認知と、身体反応と同期しつつゆっくり回る思考、そして鍋底から沸く気泡のように、ぽこぽこと浮かび上がってくる記憶たち。
どれも一緒くたになって、頭を押し流し、口から言葉となってあふれ出る。
言葉たちはテンポ良く、歯切れよく、小気味良いくらいだ。
それがまさに口演のテンポなので、読んでいて置いてきぼりにならないのだろう。
作者の方に演劇経験があるそうなので、それが大きいのかもしれない。

本人にも制御不能な、濁流のような思考と認知の混沌が、文章になって並んでいるのが面白い。

それにしても、老女たちのトーク、まさしくこんな感じだ。鳥が囀りあっているかのようなもの。
よく喋るし、結構和気あいあいとして楽しそうなのだが、じつは会話になっていない。
相手の発言を聞いてるふうで聞いておらず、それぞれが自分の話したいことを話す。
でも、誰も気を悪くせず、やりたいようにやっている。
好き勝手に鳴き交わす、鳥の群れのただ中のような「会話」だ。


■「老い」への解像度の高さ

語り口からも分かるが、とにかく、老人とその周辺の描写が上手い。
人間描写、情景描写というより、「老い」の表現、いわば日常から「老いること」を抽出するが上手いんだと感じる。
さすが現役のケアマネさん…

記憶が曖昧になり、見当識(今はいつでココはどこか?)が曖昧になり、回想と現在が曖昧になり、あたまとことばはどんどん曖昧模糊となっていくなかで、ひときわはっきりと、刻み込まれるように、身体が痛みをもって主張してくる。
身体が動く/動かないということ、不快感や痛み、身体で感じた現実というものが、朦朧とした世界と認知の中で、あまりにも手応えのある事実を伝えている。
身体の感覚は虚妄ではない。
(寝起きで、今日が何日かも分からず、しかし尿意に襲われるままほうほうのていでベッドから便所へ辿り着き、汗だくで尻を出して「今は夏だ」と気づくくだり、凄すぎませんか?)

身体も心もあたまも、それなりに健康で忙しく日常生活を送る30代のわたしは、ともすれば肉体をあって当たり前のものとしてとらえている。
意識こそが重要で、もの思うことが高尚で、とにかく意識や思考が明晰なことが人間性だと思ってしまう。
だが、肉体も衰え見当識も阻害され、記憶はあぶくのように浮かんでは消える、そんな状態では、肉体こそが意識を呼び覚ます。
立とうと思っても立てないから、ヘソを見つながらおじきをしてエイヤと立つ。次に掴むものを一つずつ目で追いながら歩く。這う。ぼっこの手で字を書く。尻を出して夏に気づく。

身体がものを言っている。
思考も言葉も、身体を追い越すことはない。

そこにも、たしかに人間性があるのだな、というのは自分にとって大きな気づきだった。

精神の健全さや、身体のすこやかさを損なったとき、わたしは失った、減った、無くしてしまったと感じていた。
しかし、その上で残るというか、改めて立ち上がってくるものがある、身体はそんな状況でも「ものを思わせてくれる」というのは、なんというか、救いに感じる。
それは優しくないし、むしろ辛いことなのだが、しかしこれから老いの道を歩くだろう自分にとっては、一つのよすがにも感じる。

老いの道は、だんだんと灯りの消えていくような道のりだろうか。
いろんなものを失っていく道のりだ。
それでも身体は、自分とともにある。
生まれてから今日までの、人生の記憶が刻まれてきた身体だ。
死が分かつまで、身体はここにある。

身体をもって生き抜くことの重たさ、尊さ、すなわち人生の賛歌だと感じる。


■女性の人生

子育てのくだり、ひたすら愛おしく、そして悲しくて、とにかくつらい。
可愛いよね…わたしも、作中と同じで、まさにちょうど2歳の女の子を育てています。
ほんとうにきゃらきゃら笑うんですよ。
声なんか細くてね、優しくて、ちいちゃいなりに親のこと気遣ってくれててね、もうとにかくいたいけでかわいいんですよ。

でね、
自分のぶんは全部うっちゃってでも子どもに捧げたいという本物の気持ちと、
何かに夢中になってしまって、ひととき子どものことをすっぽりと頭から忘れるという本物の気持ち、
両方あるんだよなぁ。

ほんとうに全部、両方ともあって、心のなかにどちらもぷかぷかとある。
どちらもが大波小波のあいだから時折り顔を出している。
だからつらい。
あまりにも分かってしまうので、もし自分だったらという想像があまりにも容易なので(自分の子が生き延びているのは本当に幸運のたまものだ、一歩間違えれば死んでいた、という体験や実感は、多くの親御さんにあるんじゃないか?)、もうどうしようもなくつらい。
止める間もなく、あっというその一瞬に事が起こってしまう、あの感じ。
取り返しのつかない、断崖へ踏み出しまった、胸の奥から吐き気の這い出るあの感じ。
分かりすぎてつらかった。

誇りと自負をもっていたはずのミシンの仕事に、一生こびりついた罪の意識が、みっちゃんたちに、ミシンやりな、と言わせない。


また、女性や弱者を取り巻くさまざまな問題も出てくる。

家庭内暴力を目の当たりにするという虐待。父親も、職業差別されての八つ当たり、憂さ晴らしで殴っていて、母はそれでも耐えて耐えて、結局死んでしまう。育児放棄を受け、継母からは虐待され、貧困の連鎖、教育を受けさせてもらえず、子どもの頃から肉体労働を課される。手に職をつけても男性の親方に良いように使われて搾取されて、その職すらも時代が変わって無くなってしまう。
さらに、性産業で消費される女性、経済DVや親権問題、安く見られるケアワーカー、パチンコ依存症、自殺、介護は嫁の仕事なのか、相続、ワーキングプアの若者。なにより、望まない結婚と非合意の性行、認知されない出産とワンオペ育児。

過去と現代にあふれる、ありとあらゆる問題が、これでもかこれでもかと突きつけられる。
わたしたちの日常にある地獄曼荼羅だ。

主人公の老女は、そんな生き地獄を生きてきた。
幼い頃の栄養失調がもとで小さい身体。
働きすぎて曲がった手足。
大正昭和を色濃く残した男尊女卑の考え方。

その姿は、わたし自身の祖母とあまりにも重なる。


■わたしの祖母は幸せだったのか

この小説は、自分にとって、もう聞けない問いの答えだった。

「おばあちゃんは幸せだったのか?」

働いて働いて、働きとおしだった、掃除と料理が好きな、背丈の小さい、白髪の、首と腕がしわしわのおばあちゃん。
手が小さくて節くれだってて、爪が薄くて、わたしと60歳違いで干支がおそろいで。
子どもが好きで、優しかった。
朝起きてから寝るまでみんな面倒見てもらった。

65歳を前にして認知症になって、20年にも渡る介護生活の末に亡くなったおばあちゃん。
認知症がどんどん進んで、ついには脳が生命維持機能を果たさない終末期まで来て、それでも生きていたおばあちゃん。

在宅介護に限界が来てからは、いろんな施設にお世話になった。山奥の閉鎖精神病棟だったこともある。
ずっと寝たきりで、胃ろうもしていた。

あるときには介護ミスで全身やけどを負い、医療ヘリで緊急搬送された。
病院の白いベッドにころんと横たわったおばあちゃんは、小さなタオルで、ベッドの柵に手を結ばれていた。
痩せこけたほほに短い白髪がかかって、目がとても大きく見えた。
もう意味のある言葉は話せない時期で、大きな鳥のような鳴き声だ、と感じたことを覚えている。
あのとき、膝と腰を曲げたその寝姿に、一枚の手ぬぐいがかけられていた。
ほっかむりに使うような、なんの変哲もないふつうの手ぬぐい。
その薄い一枚、広げた手ぬぐいのたった一枚に、おばあちゃんの胸から足先までが、すっぽりと収まっていた。
首から上だけと言われても信じるくらい、身体の厚みなんかまるで感じなかった。

あのときの、言いしえぬ気持ち、寒々としたおそろしさ、祈るあてのない悲しさが、長いこと自分を捕らえていた。

これで本当に幸せなのかなぁ。

ずっと不安だった。
自分の善性ゆえではなく、恐怖だった。
これが自分の行く末にも待っているのだと思うと、地獄だ、生き地獄、許してくれ許してくれと。
自分はこんな目に合わせないでくれ、と思っていた。

家族、自分の両親が愛ゆえに介護しているとも思えなかった。「どんな姿でも生きていてほしい」「どんな姿でも変わらずに愛している」と思っているとは、到底信じられなかった。
そこには、取り繕った体面や、欺瞞や、言い訳や、意志のなさがあるように思った。
どうしても祖母の命を玩んでいるようで、罪悪感が拭えず、怖くて怖くて、誰にも聞けなかった。
おばあちゃんは幸せだったのかな。

わたしたちがやったことは、おばあちゃんにとって良かったことかな。
おばあちゃんは、わたしのことを恨んでいるんじゃないか…

この小説は、その答えだと思った。

それでも幸せだったよ、という。

会いたい人に会って、一緒に過ごせた何年かがあって、幸せだった。
誰のせいでもないんだよ、と。

虐げられて、搾取されて、生き地獄を生きてきたひとが、それでも「しあわせだった」と言える、この果てしのない善性。
自分の犯した罪で失った最愛の存在が、それでも自分を待っていてくれる。自分を迎えてくれる。
先に行った愛しい人たちが待つ場所へ、自分も行くんだよ、という答えは、甘っちょろいのだろうけれど、ひたすらにやさしい。
救いがある。

主人公がずっと抱えていた娘への後悔が、死を前にして浄化していくとき、
読んでいる自分の後悔が、主人公に照射されて、同じように解されていくのを感じた。
救われる、許されている、と思った。

そういう意味で、大人のためのファンタジーだとも思った。
これは、介護者にとっての、残されたものたちにとっての、これから死にゆくものたちにとっての、やさしいファンタジーなのだ。

小説を読みながら、自分のおばあちゃんに再会したように懐かしくて、嬉しくて、会えないことが悲しくて、堪らない後悔の念が押し寄せて、そして心が開かれていくのを感じた。

何もない、見たくないと思っていたこころのうちに、鮮やかなものがあるのがわかった。
動くこの身体が雄弁であること、
育児に振り回されるいまのこの日々が、おそらく人生で一番幸せであるのかもしれないこと、
足元でにっこり笑うこの子の、いのちそのものがかけがえもなく大切なこと。
主人公カケイさんを通じて、他者と、世界と再会したと感じた。

すべてが一体となって、どっと波打って、とにかく涙が出て止まらなかった。

忘れがたい、良い読書になりました。
ありがとうございました。